Loose Knot

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ターニングポイント


 行きよりやや西に傾いた日差しをむき出しの肌に受けながら、小脇に文庫本を抱えたユウはのんびりと住宅街を歩いていた。夏の陽光が降り注いでいる住宅街では庭木が緑の葉を輝かせており、民家の壁や電柱にとまった蝉がけたたましく鳴いている。どの家のベランダでも洗濯物が微風に揺れていて、その光景を目にしたユウは口元に笑みを浮かべた。

 青空の下で風に揺れている洗濯物は、ユウにとって幸せの象徴である。何故そう感じるようになったのかはユウ自身にも定かではないのだが、洗濯物が外に干されているというだけで不思議とその家の幸せを思ってしまうのだ。特に夏場にそう感じるのは、夏の強い日差しでカラカラに乾いた洗濯物から太陽のにおいがするからかもしれない。明日も天気が良ければ布団を干そうと思い、ユウは洗濯物を見上げていた顔を進行方向に据え直した。

 自宅から二軒先の家の前に差し掛かった時、ユウは何気なくヒメリンゴの木を仰いだ。ヒメリンゴの木が細い枝を伸ばしている先には開け放たれたままの窓があり、ベランダには布団が干されている。青い空と白いシーツのコントラストが眩しく、ユウは掲げた手で目の上に影を作りながら口元を綻ばせた。陽光を一身に浴びているあの布団は、今宵持ち主に幸せな眠りをもたらすだろう。

「あ、ユウ」

 不意に声が聞こえてきたので、ユウは手を下ろしながら二階部分に上げていた視線を庭へと戻した。ヒメリンゴが植えられている倉科家の庭では、縁側から姿を現したマイがこちらを見ている。マイが歩み寄って来たので、ユウは垣根越しに彼女と向かい合った。

「どっか行って来たの?」

 無造作に髪を束ね上げているマイが首から下げているタオルで汗を拭いながら尋ねてきたのでユウは手にしていた文庫本を掲げて見せた。言葉はなくともそれで納得したらしく、マイは頷いている。

「なんか、ユウが昼間歩いてる姿って珍しい」

「そうでもない、と思う」

 中学の頃までは、確かにマイが言うように出歩いてはいなかった。だが高校生にもなれば寝てばかりにもいられず、色々とやるべきことがあるのだ。それでも普通の人に比べれば、ユウが睡眠に費やす時間は少々多めではあったが。

「掃除してんの?」

「うん。もう終わったけど」

 あとは布団を取り込んでベッドをセットすれば完璧なのだと、マイは笑顔を見せた。太陽の下で見る彼女の笑顔が眩しくて、ユウも思わず笑みを零す。すると何故か、マイが急に慌て出した。

「あ、そうだ、上がってく? 麦茶でも出すよ」

 マイの挙動が不審なものになったことに首を傾げたものの、ちょうど喉も渇いていたのでユウは彼女の好意に甘えることにした。玄関に回るのが面倒だったので垣根の隙間から体を滑り込ませ、倉科家の庭に進入する。マイが家の中に戻って行ったので、ユウはそのまま縁側に腰を落ち着けた。

 住宅街の他の家と同じく、倉科家の庭でも洗濯物が風に揺れている。いつから干していたのかは分からないが、厚手のバスタオルでさえもう乾いている様子だった。風呂上りの体からよく水滴を吸い取ってくれそうだと眺めているとマイが戻ってきたので、ユウはそちらに顔を傾ける。マイに渡された冷えた麦茶を一息に干すと、人心地ついたような気になった。

「洗濯物とりこんじゃうから、そこでちょっと待ってて」

 ユウにそう言い置き、マイはサンダルをつっかけると再び庭へ下りて行った。倉科家の縁側でくつろいでいたユウは何となくマイの作業を眺めていたのだが、知らずのうちに口元が緩んでいたことに気がついて驚いた。

「はい」

 洗濯物の山を抱えて戻って来たマイは、そう言うとユウにタオルを放った。呆けながらマイの動作を目で追っていたユウは、頭に落ちてきたタオルを無造作に下ろしてからマイを見る。よく乾いてるから気持ちいいでしょと、マイは笑った。

 マイの笑顔がいつの間にか、幸せの風景に取り込まれてしまっている。そう感じたユウはぽかんとしたまま反応を返せないでいた。洗濯物を抱えたまま家の中へと戻って行ったマイはユウの様子に気がつかなかったようで、至って平然と話を続ける。

「そうだ、ユウ。今夜なに食べたい?」

「え? 何?」

「だから、今夜なに食べたいって訊いたんだけど」

「今夜? 何で?」

「もしかして、また聞いてないの?」

 眉根を寄せたままのマイは、彼女の両親とユウの両親が今朝から旅行に出かけてしまったのだと教えてくれた。そんな話は聞いていなかったが出掛けに母親の姿がなかったことを思い出し、ユウは納得して頷く。彼らの両親が子供を置いて旅行へ行くことは珍しいことではなく、ユウもマイもこういった事態には慣れきっていた。

「私が夕飯作るから。何がいい?」

「……何でも」

「それが一番困る。何か食べたいものないの?」

「じゃあ、カレー」

「カレーね。じゃあ、六時半ごろ来てね」

 ちゃんと起きててよと言い残し、手早く洗濯物を畳んだマイは忙しなく姿を消した。立ち上がったユウはマイからもらったタオルを首にかけ、麦茶のグラスをキッチンへ運んでから踵を返す。動き出すと再び噴き出してきた汗を拭ったタオルからは、太陽のにおいがしていた。






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