Loose Knot

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ホワイトデーの動機


 日に日に春の気配が迫ってきている三月のある日曜日、マイは母親に呼ばれて二階にある自室を後にした。昼の時分、マイは昼食だろうと思って階段を下りてきたのだが玄関先には来訪者の姿があった。

「あれ? ユウじゃん」

 まだ靴のまま玄関に佇んでいるのはマイの家の隣の隣に住むクラスメイト、ユウであった。ユウは何よりも惰眠を貪ることを好むため、休日に姿を見かけることは滅多にない。希少な出来事に驚いたマイは急いで階段を下りきった。来客の対応に出て来ていた母親がニヤニヤ顔でリビングへと戻って行ったので、マイは首を傾げながらもユウに声をかける。

「どうしたの? ユウがうちに来るなんて珍しいね」

 言いながら、マイはユウが自発的に訪ねてくるのは初めてなのではないかと思っていた。あまりにも珍しい出来事だったので、マイはどんな事情があるのかと身構える。ユウの口から出た言葉は、別の意味でマイの想像を絶するものであった。

「お菓子の作り方、教えてほしいんだけど」

「……は?」

 マイはあんぐりと口を開け、二の句が告げられなくなった。それほどまでにユウが言い出したことは突飛だったのである。

 ものぐさなユウは、普段から家事を一切しない。料理なんてもっての外であり、ユウの両親が留守にした時はマイが食事を作りに行ったほどである。そんな人物が料理(しかも菓子類)を作りたいと言い出すなど、マイには想像もつかなかったのであった。

「ダメ?」

 マイがいつまでも無言でいるのでユウの方から話を再開させた。なんとか驚きを治めたマイはユウが甘党であることを思い出し、何となく納得して頷く。

「いいよ。それで、何作りたいの?」

「クッキー」

「クッキーね。うん、いいんじゃない?」

 物にもよるがクッキーは材料の種類が少なく、生クリームなどを使わないので比較的簡単に作ることが出来る。お菓子作りの入門には最適だと思ったマイは深く頷き、ユウに上がるよう動作で示した。階段を上り、二階にある自室へユウを招き入れた後、マイは本棚からお菓子類の本を数冊引き抜いてクッキーのページを開ける。

「型抜きとかアイスボックスとか色々あるけど、どれがいい?」

「……違いが分からない」

 ユウは眉根を寄せ、床に広げられている本を見比べている。マイはユウのために簡単な解説を加えた。

「アメリカンのプレーンはラング・ド・シャみたいな食感になるよ。型抜きは見た目がキレイだよね。アイスボックスは市松模様とか、色んな模様が作れるの。絞り出しは一番手間がかからないかな」

「ラングドシャ?」

「ああ、えっと、軽くて口の中で溶けるみたいな感じのやつ」

「ふうん。色々あるんだな」

 ユウは感心したように零した後、再び本に見入った。しかし結論は出なかったようで、ユウは再びマイを仰ぐ。

「マイはどれが好き?」

「うーん、そうだなぁ……食べる分にはアイスボックスが好きかな」

「じゃあ、それで」

 ユウがあっさり決定を下したのでマイは呆れた。ユウはマイの視線には気が付かなかったようで、熱心に材料覧を眺めている。

「バターと砂糖と卵……二千円で足りるよな?」

「買い置きがあるかもしれないから、買い物は確認してからの方がいいよ」

 算段しているユウに言い置き、マイは台所へ行くべく立ち上がった。するとユウが慌てた声を上げたのでマイは扉を背に振り返る。

「何?」

「材料費は俺が出すから」

「へ? 何で?」

「俺が頼んでるから」

「何言ってんの。無塩バターとかなんてお菓子作りでもしなきゃ使わないんだから。使い切らないともったいないでしょ?」

「……まあ、確かに」

「足りない物だけ買えばいいんだよ。確認してくるからユウはここで待ってて」

 マイに押し切られ、ユウは渋々頷いた。ユウを納得させたマイは部屋を出て、階下の台所へと向かう。リビングには母親がおり、マイが台所を漁り始めると不審そうな声を上げた。

「何してるのよ、うるさいわね」

 母親が台所まで出向いてきたのでマイは戸棚を探りながら事情を説明した。ユウにお菓子作りを教えるのだと聞くとマイの母親は急に文句を収める。

「じゃあ、お母さんは買い物に行ってくるから。五時までには台所空けてね」

 ひどく好意的な母親の言葉を聞いたマイは眉根を寄せて顔を上げ、常々疑問に思っていたことを尋ねてみた。

「お母さん、ユウに甘くない?」

「だってユウちゃん、素直でカワイイじゃない。同じ男の子でも秋雄とは大違い」

 ユウと比較されている秋雄とは、マイの兄である。大学生で一人暮らしをしている兄のことはさておき、マイは母親がユウに熱を上げていることに呆れかえった。

「はいはい。卵、使ってもいいですか?」

「いいわよ。買ってくるから」

 母親から了承を得たマイは確認作業を終えたので部屋に戻ることにした。リビングの扉を後ろ手に閉め、マイはため息を吐く。

(ユウっておばさんにもモテるんだ……)

 やっぱりよく分からないと呟きながらマイは二階の自室に戻った。床に座ってお菓子の本を眺めていたユウが顔を上げたので、マイは確認の結果を伝える。

「三十個くらいだったらうちにあるので足りそうだよ。もっと数、いる?」

「……いや、そのくらいでいい」

 まだ材料費のことを気にしているのか、ユウは渋い表情のままだった。またユウが細かいことを言い出さないうちにと、マイはユウを促して部屋を出る。リビングへ行くとすでに母親の姿はなく、マイはさっそく器材を取り出した。

 冷蔵庫から取り出したばかりのバターは硬かったので、マイはユウに手の熱で柔らかくするよう指示を出した。ボウルの中のバターをユウが揉んでいる間に、マイは薄力粉や砂糖の準備をする。お互いの作業をしながら、マイとユウは雑談を始めた。

「ユウさぁ、最近寝すぎじゃない?」

「……そうか?」

「そうだよ。この間だってさ、寝起き悪すぎ。夏はそんなでもなかったのに、何で?」

「冬は……無理。布団から出たくない」

「……まあ、その気持ちは分かるけど。あんまり寝てばっかいると脳みそ溶けるよ?」

「溶けないって」

 ユウは苦笑しながらバターが柔らかくなった旨をマイに伝えた。マイはボウルの中を覗き込み、ユウに次の指示を出す。

「手、洗って。泡だて器で混ぜて」

 ユウにそう告げた後、マイは冷蔵庫から取り出した卵を割る。卵の殻を使って卵白と卵黄とに分けているとユウがマイの手元を覗き込んだ。

「器用だな」

「いいから、早くバターを混ぜる。そこに塩出しておいたから一つまみ加えてね」

「……はい」

 マイに素っ気なく返されたユウは大人しく作業に戻り、バターをかき混ぜる。バターがクリーム状になったところでパウダーシュガーを加えるという動作を幾度か繰り返し、卵黄と薄力粉を加えて混ぜ合わせれば生地の完成である。

「生地を袋に移して、こうやって丸めて、冷蔵庫で少し硬くしたら後は焼くだけ」

 生地を冷蔵庫に納めたマイはユウを振り返って初めてのお菓子作りの感想を求めた。ユウは半笑いを浮かべ、小さく首を振る。

「手間がかかる」

「それが楽しいんじゃん」

 マイがきっぱり言ってのけると、ユウは尊敬すると呟いた。

「そういえば、何で急にお菓子作りする気になったの?」

 マイが何気なく問いを口にするとユウは表情を改めた。ユウが急に畏まったと感じたマイは、どんな動機が語られるのかと身構える。しかしユウが発した言葉は質問の答えではなかった。

「やっぱり俺、金払う」

「……いいって言ってんのに」

 ユウが材料費の問題を蒸し返したのでマイは呆れていたが、妙案を思いついたので手を打った。

「それならユウ、ヨーグルト買ってきて。プレーンのやつね」

「ヨーグルト?」

「うん、ヨーグルト。クッキー代はそれでチャラ」

「……分かった。行ってくる」

 ユウが素直に従ったので、マイは玄関先まで見送りに出る。戻って来たらインターホンで知らせることをユウと確認しあった後、マイは台所に戻って卵白の泡立てを開始したのであった。






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