往復二十分ほどの近所のスーパーへ買い出しに出かけたユウは、マイの言った通りプレーンのヨーグルト一つだけを手に戻って来た。冷蔵庫のクッキー生地もほどよい頃合だったので、マイはさっそくユウに焼き方を伝授する。クッキーをオーブンにかけた後、マイはユウが買ってきたヨーグルトを開封した。
「そのまま食べるのか?」
ユウが不思議そうに尋ねたのでマイは卵白の入ったボウルを指す。
「クッキーには卵黄しかいらないから。卵白、捨てるのもったいないでしょ?」
ユウはマイの言葉に頷きながらボウルを覗き込んだ。泡立てた卵白に砂糖とヨーグルトを加えて混ぜ合わせ、作業は終了である。マイがボウルごと冷凍庫にしまうとユウが疑問を口にした。
「それで、何が出来るんだ?」
「アイス……って言うよりシャーベットかな。食べたい?」
「食べたい」
「じゃ、明日食べにおいでよ。私が持ってってもいいけど」
「明日?」
「凍るの、六時間くらいかかるから」
「……明日、食べに来る」
ユウが納得したのでマイは笑いながら頷いた。再び時間が空いてしまったので、マイはユウを促してリビングへと移動する。
「そういえばユウ、ご飯食べた? 私、お昼まだなんだけど」
「微妙な時間に食べた」
「小腹、空いてる?」
「微妙。何か作ってくれるなら食べたいかも」
「……はいはい」
マイは肩を竦め、一人で台所へと戻った。夕食までそれほど間のない時間帯だったので、マイは小さなおむすびを作る。熱い緑茶と一緒にリビングへ運び、マイはユウの隣に腰を下ろしておむすびにかじりついた。
「そういえばユウ、松丸さんから何か言われた?」
マイが話題に出した松丸とは、ユウのことを好きな女の子のことである。松丸はバレンタインデーにチョコレートを渡したのだが、ユウには彼女の真意がまったく伝わっていなかった。そのためマイが「ユウに気持ちを伝えるにはストレートに告白するしかない」という助言を間接的にしたのである。しかしユウはマイが何のことを言っているか分からない様子で首を傾げた。
「何かって何?」
「……いや、何も言われてないならいいんじゃない?」
「何だよ、それ」
ユウは不可解そうな表情をしていたが、どうでもいいことなのか追求はしなかった。マイは少し松丸を不憫に思いながら緑茶を飲み干して立ち上がる。マイが空いた皿に手を伸ばそうとするとユウが制した。
「俺が持ってくから」
「そう? じゃ、持ってきて」
ユウにリビングの片付けを任せ、マイは台所に移動した。先程焼きあがりを告げる音が鳴ったオーブンは沈黙している。マイがオーブンを開けると加熱されたバターの香りが台所に漂った。
「うん、いい出来」
クッキーがいい色合いに仕上がっていることを確認したマイは新しい皿を取り出してクッキングペーパーを敷く。その上にクッキーを並べているとリビングからやって来たユウが不思議そうに声を上げた。
「これは何してんの?」
「余分な油を取ってんの」
「へえ」
「ユウ、食べてみなよ。焼きたてだから美味しいよ」
マイが何気なくクッキーを差し出すと両手に湯のみと皿を持っているユウは困った顔をした。マイはニヤリと笑い、ユウの口元にクッキーを近づける。
「はい、あーん?」
「やめろよ。これ置いてから食べればいいだけだろ」
マイのからかいにも動じず、ユウは食器を流しに置いた。マイの手からは受け取らず、ユウは皿に盛られたクッキーをつまんで口に放る。マイは笑いながら手にしているクッキーを自分の口に投げた。
「うん、上出来。美味しいよ、ユウ」
「まあ、こんなもんだろ」
口では普通だと言いつつも、ユウはまんざらでもない様子であった。マイは微笑みながら引き出しを開け、ユウに声をかける。
「持って帰るんでしょ? ラップでいい?」
「五個だけ包んで」
「え? それだけ?」
「うん。残りは、マイに」
「……どういうこと?」
ユウが不可解なことを言い出したのでマイは眉根を寄せた。しかしユウは至って真面目な表情のまま謎かけのような言葉を口にする。
「今日は何月何日?」
唐突に日付を訊かれたマイはとっさに壁掛けのカレンダーを振り返る。そして、目にした日付を無感動に読み上げた。
「三月十四日の日曜日……うん?」
「何の日?」
「……ホワイトデー」
ようやく納得がいったマイは途端に忙しない気分になった。マイがソワソワしながら顔を傾けても、ユウは真顔のままである。
「チョコ、もらったから。お返し」
ユウがまったく表情を変えることなく言ってのけたので堪えきれなくなったマイは吹き出した。
「うわー、マメだよ! ユウってリチギだったんだ」
「……マイの方がよっぽど律儀じゃん」
「ええ? 何で?」
「クリスマスにもケーキもらったし」
マイから顔を背けたユウはモゴモゴと、文句まがいの礼を言った。マイはユウの態度に爆笑したが、ふと腑に落ちたことがあったので真顔に戻る。
「それで、材料費のことにこだわってたの?」
「お返しする相手におごられるって、意味わかんないじゃん」
「……確かに」
ユウの言葉に深く頷きながらもマイはじわじわと嬉しさが沁みてきていた。胸の中が微笑ましい気持ちで一杯になったマイは意味もなくユウの背中を叩く。
「やっぱユウのことかなり好きかも」
「……は?」
叩かれた背中を無理な格好でさすっていたユウが驚いたような顔をしたのでマイはもう一度吹き出した。
「せっかくだから一緒に食べよ? 紅茶淹れてくから先行ってて」
怪訝そうにしているユウにクッキーの皿を持たせ、マイは台所から追い出した。マイ自身は紅茶を淹れてから、サランラップを持ってリビングへと戻る。ユウに言われた通り五個だけサランラップに取り分けてから、マイはクッキーに手を伸ばした。
「それにしてもユウがホワイトデーを覚えてたなんてねー。ビックリだよ」
マイがホワイトデーの話題を蒸し返すとユウは嫌そうな顔をしてそっぽを向いた。無性にユウをからかいたい気分のマイは拗ねている頬を指でつつく。
「やめろって」
ユウはマイの手を邪険に振り払い、ソファの上で距離をとった。もう少しユウで遊ぼうと思っていたマイはふと、あることに気がついてテーブルに視線を傾けた。
「ユウ、この五個って松丸さんへのお返し?」
不機嫌そうにしていたユウはマイが真顔に戻ったので態度を改めた。ユウが頷いたのでマイは眉根を寄せながら問いを重ねる。
「もしかしてさ、このまま渡そうとか思ってない……よね?」
「……ダメなのか?」
ユウが中身丸見えのままクッキーを渡そうとしていたことを知ったマイは額に手を当てて首を反らせた。
「あのねぇ……お返しなんでしょ? だったらちゃんとラッピングして渡すこと!」
中身が手作りとはいえサランラップのまま渡されたのでは相手も困るだろう。女心が分かっていないという以前に、ユウには一般的な常識が欠けている。今更ながらにそう思ったマイはため息を吐いてから立ち上がった。
「何かないか探してくるから。ちょっと待ってて」
ユウにそう言い残し、マイはリビングを出て二階の自室に向かった。部屋を探っていると使いかけのラッピング用品を発見したので、マイはホッとして息を吐く。
(まったく……ラップのまま渡そうとするなんて何考えてんだか)
もう一度深々と息を吐き、マイはラッピング用品を手に部屋を出た。しかし階段の手前で立ち止まり、マイはしげしげと手にした物を見つめる。
律儀にもバレンタインのお返しをしようと思ったユウは、松丸にまったく気がない訳ではないのかもしれない。松丸の方は本気のようなので、ユウにその気があるのならばカップル成立である。ホワイトデーのお返しをきっかけにユウが松丸と付き合い出すのかもしれないと思うと、マイは少し複雑な気分になったのだった。
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