三月十五日はホワイトデー翌日の月曜日である。マイはこの日、隣の席に座っているユウがいつクッキーを渡しに行くのか気になって仕方がなかった。だが何事もなく昼休みが過ぎ、ついに放課後になってもユウは松丸の元へ行く気配がない。初めはソワソワしていたマイも帰りのホームルームが終わった頃には呆れており、隣の席で眠るユウの肩を揺さぶった。
「ユウ、起きなよ」
マイが揺り起こすとユウは鬱陶しいと言わんばかりに寝ぼけ眼を上げた。もう放課後だとマイが教えてやるとユウはようやく体を起こし、あくびをしながら鞄に手をかける。本当に脳みそが溶けてしまったのではないかと疑ったマイは立ち上がろうとしたユウを制した。
「ユウ、昨日のこと覚えてる?」
「昨日のこと?」
再び腰を落ち着けたユウが怪訝そうに問い返したのでマイはますます疑いを強めた。ユウの脳みそは本当に溶け出しているのかもしれない。マイは本気でそう思いながら呼び止めた真意を明かした。
「松丸さんにお返しあげに行くんでしょ? ちゃんと覚えてる?」
松丸という女子は他のクラスでも人気が高いので、マイは声をひそめて言った。しかし自覚のないユウは平素と変わらない声音で応える。
「覚えてるけど、それが何?」
「いや、覚えてるならいいんだけど……。あんまりにも渡しに行く気配がないから忘れてるんじゃないかと思って」
「……何でそんなに見てるんだよ」
ユウは呆れたような表情をしてマイから視線を外した。そこへ、友人の朝香がやって来たのでマイも視線を傾ける。
「マイ、久本くんが呼んでるよ」
朝香が教室の扉を指したのでマイはそちらに顔を向けた。久本は一年の時にマイと同じクラスだった男子である。扉の所でヒラヒラと手を振っているジャージ姿の久本を目にした刹那、マイはあることを思い出した。
「ああ!」
思わず声を上げたマイは朝香に礼を言って急いで席を立つ。歩き出そうとしたマイは、しかし何かの力によって引きとめられた。スカートの裾を引っ張っている手の主を見下ろし、マイは首を傾げる。
「何?」
「……なんだろ?」
奇妙な返答をマイに寄越したユウは煮え切らない表情で手を放した。マイにもよく分からなかったが、久本を待たせているので急いでその場を離れる。
「こっち来て」
小箱を手にしている久本はマイに手招きをしながら移動を開始した。二人がやって来たのは階段の裏であり、ここは知る人ぞ知る密談に最適な場所である。すでに用件を察しているマイは期待のこもった瞳で久本を見た。
「まさか本当にくれるとは思わなかった。で、何くれんの?」
マイがせっつくと久本もニヤリと笑って小箱を開ける。小箱の中には透明なビンが入っており、ビンの中にはレモン色の飴がたくさん入っていた。ちなみにこれは「チョコレート一個分」のお返しである。
「一個取って、今すぐ食って」
久本の挑戦的な科白にピンときたマイは受けて立つと言い放って飴を一個取り出した。おそらくこれはロシアンルーレット式ゲームなのだろう。
「一個だけすごくすっぱいとか、そういうやつでしょ?」
透明な包み紙を開き、マイは笑いながらレモン色の飴を口に放る。当たるはずがないと高を括っていたマイは、飴が舌に触れた瞬間吐き出した。
「辛い!!」
あまりの辛さに耐えられなかったマイは水道まで猛ダッシュした。水道水で口内と喉を洗浄した後、マイは再び階段裏へと駆け戻る。そこでは久本が爆笑していた。
「期待を裏切らないなぁ。さすがだよ」
「信じらんない! レモン色はどう考えてもすっぱいんじゃなきゃおかしい!!」
「そこがミソなんだって。期待を裏切らないお返しだっただろ?」
久本が笑いながら言うのでマイの堪忍袋の緒が切れた。
「もう絶対久本にはチョコあげない!」
憤慨したマイはそう言い捨て、大股で歩き出した。人影もまばらな教室に戻ったマイは肩を怒らせたまま帰り支度を開始する。しかし朝香が声をかけてきたのでマイは怒りを静めて顔を向けた。
「マイって久本くんと知り合いだったの?」
「うん。一年の時同じクラスだったから。何で?」
朝香が微妙な表情をしていたのでマイは首を傾げて尋ねた。朝香は周囲を気にしつつ、マイの耳元に顔を寄せて答えを口にする。久本が貴美子の想い人だと聞いたマイは驚きに目を見開いた。
「えー!? そうだったの!」
「マイ、声でかい」
「あ、ごめん」
朝香にたしなめられたマイは自分の口元を手で覆った。人が少なくなっているとはいえ教室で他人の恋愛話をすることに気が引けたマイは朝香を促して教室を出る。先程久本に連れられて来た密談に最適な場所に移動し、久本の姿がないことを確かめてからマイは朝香を振り返った。
「久本くん、何の用だったの?」
朝香に疑っているような目を向けられたマイは苦笑しながらあらましを説明する。多少大袈裟になっていたマイの話を聞いた朝香も苦笑いを浮かべた。
「ふうん。そんなことがあったんだ」
「レモン色なのに辛いんだよ? 信じらんない」
「アメの話はどうでもいいから」
朝香に素気無く不満を流されたマイは不服に唇を尖らせた。しかし朝香には取り合ってくれる様子もなく、彼女の関心は友人の貴美子のことにのみ向けられているようである。
「久本くんって彼女いるの?」
朝香が問いを重ねたのでマイは首を傾げるついでに天井を仰いだ。
「いないんじゃないかな。サッカー部が全員モテると思うのは単純だとか言ってたから」
「それ、彼女いるかどうかってこととあんまり関係ないんじゃない?」
「私が会った時はマネージャーからの義理チョコしかもらってないって言ってたよ。その後は知らないけど」
「バレンタインが休みだったもんねぇ……」
朝香はふっと、遠い目をした。彼女がバレンタインに玉砕したことを知っているマイは複雑な思いで口をつぐむ。しかし朝香はすぐに笑って見せた。
「ね、マイ。久本くんに彼女がいるかどうか聞いてきてよ」
「えー、やだよ。校舎も違うし、わざわざ会いに行くのも変じゃん」
「マイって冷たい」
「……キミちゃんが知りたいって言うなら、考える」
「……そうだね。本人のいないところで話を進めるのは良くないよね」
「うん、良くないよ」
貴美子の意向を尊重するということで話がまとまったのでマイは胸を撫で下ろす。しかし悪ガキ然とした久本の顔を思い浮かべ、マイは軽く眉根を寄せた。
「キミちゃん、久本の何処が良かったんだろう」
「頑張ってるところ、なんだって」
「……へえ」
朝香から疑問の答えを得たものの反応を示し辛かったマイは曖昧に苦笑を浮かべることしか出来なかった。
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