Loose Knot

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湯けむり温泉家族旅行


 温泉は露天風呂だった。脱衣場から出た途端、外気に晒されたマイは足を滑らせないよう注意しながらも早足で温泉へと向かう。まずはつま先で湯の温度を確かめ、マイは慌てて足を引き抜いた。湯の中に入らなければ凍えてしまいそうな寒さだが、いかんせん体が浸かるには熱すぎる。しかし裸の体が外気に耐えられなかったので、マイは顔をしかめながらゆっくりとお湯の中に入った。

「マイちゃん、大丈夫?」

 先に湯に浸かった美樹は熱さに強いようで、平然としている。少しずつ熱さが心地よさに変わってきていたのでマイは引きつった笑みを返した。

「しみてます」

 マイの返事がおかしかったらしく、美樹は顔を背けて吹き出した。ようやく熱さに慣れたマイは足を伸ばし、骨にまで沁み込むような温泉を堪能する。

「あー、気持ちいいですねぇ」

「マイちゃん、あんまり深く浸かるとのぼせちゃうわよ」

「でも美樹さん、肩出してると寒くないですか?」

「こうして、お湯をかければいいのよ」

 美樹は手でお湯をすくい、それを外気に晒されている肩にかけた。首まで浸かっていたマイも肩を出し、美樹の真似をしてお湯をかける。温泉から立ち上る湯けむりのせいかそれほど寒くもなく、十分だと思ったマイはお湯の中で座りなおした。

「あら、マイに美樹ちゃん」

 温泉の中程から母親の声がしたのでマイは顔を傾けた。先に温泉に入っていたマイの母親とユウの母親が泳ぐようにしながらこちらへ向かって来る。脱衣所からほど近い場所にいるマイと美樹はその場で両家の母親を迎えた。

「いいお湯ね〜。この後食事が自動的に出てくるなんてサイコウ」

「毎日の献立を考えるのも苦労しますものね」

「そうそう。秋雄一人だと何にもしないんだから。あんな息子をもらってくれてありがとうね、美樹ちゃん」

「こちらこそお世話になります」

 母親と美樹が話しこんでいるのを聞きながらマイは苦笑いを浮かべた。マイは幼い頃から家事が好きだったが、秋雄は確かに何もしないのである。それは一人暮らしを始めてからも改善されなかったようで、そんな兄は美樹にとても助けられてきたのだろう。

「うちの子も本当に何もしないのよ。将来が心配だわ」

 ユウの母親が愚痴のように零したのでマイは苦笑いのままの顔を彼女に向けた。

「ユウが炊飯器も使えないって聞いた時はちょっとビックリしました」

「そうなの、ご飯も炊けないのよ。料理上手なお嫁さんじゃないとダメね」

「だったらうちのマイなんかどう? 成績も運動神経も並だけど家庭科だけは優秀だものね」

 話に割って入って来た母親に同意を求められたマイは頷くわけにもいかず、困惑した。しかしマイの反応など関係がないらしく、母親同士の話は続く。

「マイちゃんならしっかりしているし、お料理も得意だものね。是非お嫁に欲しいわ」

「もう親戚になっちゃいましょうよ。小笠原さんなら大歓迎」

「そうなれたら嬉しいけど……マイちゃん、どう?」

「どうなの、マイ?」

 唐突に矛先を向けられたマイは苦笑いをすることも出来ず、ぽかんと口を開けた。母親達は本気なのか冗談なのか分からない笑顔のままマイの返事を待っている。マイが長時間無反応でいたため、見兼ねたように美樹が口を挟んだ。

「マイちゃん、これから高校生になるんですもの。まだそういうことは考えられないわよね?」

 呆けていたマイは美樹が助け舟を出してくれたことに気がついて何度も頷いた。はっきりした返事が聞けなくて残念がっている母親達を一瞥し、それから美樹はマイに笑顔を向ける。

「そろそろ上がりましょうか。のぼせちゃうわ」

「あ、はい」

 美樹の視線に促され、マイは一足先に湯から出た。美樹はまだお湯の中にいて、両家の母親に声をかけている。母親達がまだ温泉にいるという返事を得てから、美樹も立ち上がった。

 脱衣所に戻ったマイは思考停止状態のまま浴衣を着て、長椅子に腰を落ち着けてから手近にあった団扇を取り上げた。何を考えるでもなく、温泉で火照った体に団扇で冷風を送る。そうこうしているうちにふと、母親がやたらとユウに甘かったことを思い出してゾッとした。

(うわっ、怖っ。あれってああいう意味だったの!?)

 今まで深く考えたことなどなかったが、もしかしたらマイの母親はすでに娘を小笠原家に嫁がせようと計画していたのかもしれない。小笠原家の方もまんざらではなさそうだったのでマイはユウと仲良くすることに不安を覚えた。

「マイちゃん、行こう?」

 美樹に声をかけられて思考に沈んでいたマイは我に返った。後から脱衣所に来た美樹もすでに浴衣を身につけている。慌てて立ち上がったマイは並んで歩き出しながら美樹にお礼を言った。

「助けてくれてありがとうございました。お母さん達があんなこと考えてたなんて知らなかったから、ビックリしちゃって」

「マイちゃんまだ高校生なんだもの、本気じゃないわよ。そうなったらいいなぁって思ってるだけ。だから気にしない方がいいわ」

 マイが何を考えていたのかまで見通しているようで、美樹は安心させるようなことを口にした。宥められたことを察したマイは苦く口元を歪める。

「いきなり、あんなこと言われても。困っちゃいますよね」

「マイちゃんはユウくんのこと、どう思ってるの?」

「うーん、よく分からないです。好きだけど、お母さん達が言ってたようなことは考えたこともないから」

「マイちゃんは自分の素直な気持ちを大切にすればいいの。恋をするのはお母さん達じゃなくてマイちゃんなんだから」

「それは、そうですね」

 美樹の意見に深く納得したマイは途端に気が楽になった。無理して背伸びすることはないと美樹が言ってくれたので、マイは考えることを止めて自然に笑う。

「よっしゃー! 見たか親父!!」

 突如前方から奇声が聞こえてきたのでマイはビクッとして足を止めた。美樹も歩みを止めて奇声の出所である卓球場への入口を見つめている。半ば確信しながら、マイは美樹に話しかけた。

「今の声って……」

「秋雄の声でしょう」

「……やっぱり。美樹さんもそう思うなら間違いなさそうですね」

「まだ卓球やってたのね。ちょっと覗いて行こうか」

 美樹に促されるまま、マイは卓球場へと足を運んだ。窓を閉め切った室内には熱気が充満していて、外気に反して蒸し暑い。マイは思わず、浴衣の胸元を緩めた。

 二台ある卓球台の一つを占拠しているマイの父と兄は低いネットを挟んで火花を散らしていた。小笠原家の方はもう観戦に回っていて、マイは床にぐったりと座り込んでいるユウの傍へ寄る。

「ユウ、お父さんとお兄ちゃんはほっといていいからお風呂行ってきなよ」

「行ってきたのか?」

「うん。露天風呂で気持ちいいよ」

「……そうする」

 ユウがのろのろと立ち上がったのでマイはユウの父親にも同じことを囁いてからサウナのような卓球場を後にした。美樹は卓球場に残り、白熱する勝負の行方を見守るという。兄の相手は美樹じゃないと務まらないと思ったマイは背後から轟く奇声に呆れながら客室へと向かった。






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