Loose Knot

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受験生の夏


 夏の真っ盛りである八月の午後、庭木にとまったアブラゼミがジージーと鳴いている。蝉がとまっているヒメリンゴの木はマイの部屋が面している自家の庭に植えられていて、開け放していた窓から容赦なく鳴き声が侵入してくる。あまりの煩さに集中力が切れてしまったマイは汗で湿ったシャープペンシルを手放し、椅子の背もたれに体重を預けた。

(あっつーい……)

 梅雨明けからうだるような暑さが続いていて、この日の気温もすでに三十度を超えている。何もしていなくとも汗が噴き出す暑さだが、マイは冷房をつけずに机に向かっていた。しかしそれも、限界である。

 棚に置いてある時計を一瞥した後、マイは教科書とノートを片付けて席を立った。時刻は午後四時。買い物に行く前に汗を流そうと思ったマイは階下へ行き、さっとシャワーを済ませた。ハーフパンツにTシャツという出で立ちでリビングに戻ったマイは麦茶をグラスに注ぎ、一息に干す。冷えた麦茶が心地よく、渇いた体を潤していった。

(あー、サイコー)

 冷房で体を冷やすことなく、吹き出る汗を冷たいシャワーで洗い流す。そして汗を流した後に流し込む冷たい麦茶が、普段どんなに美味しいと感じているジュースよりも美味なのだ。そうした夏の過ごし方を幼馴染みであるユウに教えてもらってから、マイは健康的な生活習慣にはすっかりまっていた。

(さーて、何つくろうかなぁ)

 麦茶を冷蔵庫に戻したマイは洗いたての髪をタオルでかき回しながらリビングを後にした。マイが夏休みということもあって母親は旅行に出かけてしまい、父親と自分の夕食をマイが作らなければならないのだ。

(お父さんはビールと枝豆があればいいみたいだし、簡単なものでいっか)

 気温の上昇と反比例して食欲は落ちる季節であり、マイは麺類にしようと考えながら自室に戻った。すると狙ったかのように携帯電話が鳴り出したので、マイは着信が兄からであることを確認してから電話に出た。

「もしもし?」

『おう、マイか?』

「うん」

 マイの兄である倉科秋雄は大学生であり、一人暮らしをしているので一緒に暮らしてはいない。秋雄は休みになっても実家に帰って来ることがほとんどなく、家族に電話を寄越すことさえ稀であった。マイは久々に聞いた兄の声に首をひねる。

「何? どうしたの?」

『あと二時間くらいで帰るから。親父とおふくろにもそう言っておいてくれ』

「ふーん、帰って来るんだ? でもお母さん、いないよ」

『えっ? いない?』

「うん。町内の奥さまたちと旅行」

『……マジかよ。まいったな』

 電話口の兄が明らかに戸惑っていたので、マイはさらに首をひねった。

「お母さんがいないとマズイの? 夕飯なら私が作るけど」

『いや、実はさ……彼女、紹介しようと思って』

「彼女……を、紹介? 一緒に来るってこと!?」

『そういうこと。じゃあ、親父にはそう言っといてくれよ』

 驚くマイをよそに、一方的に話を切り上げた秋雄は電話を切ってしまった。マイは携帯電話を片手にしばらく呆けていたが、ハッとして動き出す。

(そういうことはもっと早くに言ってよね!)

 慌てて階段を駆け下りたマイは掃除機を取り出し、再び汗だくになりながら掃除を始めたのだった。






 小一時間ほど掃除に明け暮れた後、マイは夕飯の食材を買いに近所のスーパーへ出かけた。当初はそうめんか冷やし中華で簡単に済ませようと思っていたのだが、兄の彼女が来るのであれば献立を考え直さなければならない。しかし初対面の相手が何を好むのか分かるはずもなく、マイは店内を行ったり来たりしていた。

(どうしよう……何がいいのかなぁ)

 肉の売り場から鮮魚コーナーを回り、野菜売り場に戻って店内を一周してしまったマイは疲れた息を吐いた。

(もういいや、カレーにしよう)

 カレーが嫌いな人はそうそういないだろうと自分を納得させ、マイはにんじんやじゃがいもを買い物籠に放っていく。再び肉の売り場に戻ったところで、マイは異様な人物を目撃した。大半の客が肉を手に取って質や値段を見ている中、その人物は直立不動で立ち尽くしている。

「……何してんの?」

 マイが近寄って声をかけると、不審人物は顔を傾けてきた。

「買い物」

 一言で済ませ、ユウは再び肉のトレイが並ぶ棚へ視線を移す。しかしやはり、ユウには動く気配がなかった。見兼ねたマイは横から口を出す。

「何の肉買ってきてって言われてるの?」

 ユウがおつかいで来ていると思い込んでいたマイはそう尋ねたのだが、ユウは眉根を寄せてマイを見た。

「どういう意味?」

「へ? おばさんに頼まれて買い物に来たんじゃないの?」

「母さんなら、マイのところのおばさんと一緒だけど」

「あれ? そうなの?」

 何も聞いていなかったマイは驚いて目を瞬かせた。

 去年の夏、ユウの両親を旅行に誘うためにマイの母親は一万円をちらつかせた。今回の旅行も言ってくれればもっと金をせしめたのにと、マイは密かに歯噛みする。しかしそんなことを言っても今更なので、マイはユウとの話を再開させた。

「じゃあ、ご飯どうしてたの?」

 ユウの母親がマイの母親と一緒なら、一昨日から不在ということになる。ユウは料理を含め、家事をするタイプではないのだ。

「トーストとか、お茶漬けとか、具のないインスタントラーメンとか」

 ユウから返ってきたのは案の定な答えであり、マイは呆れた。

「言ってくれれば食事くらい作ってあげたのに」

「……作ってくれんの?」

「いいよ。どうせ今から作らなきゃいけないんだし」

「助かる」

 ユウはホッとしたような表情をして肩の力を抜いた。その様子を怪訝に思ったマイは、ユウが肉の売り場で何をしていたのか尋ねてみた。

「父さんが何か作れって言うから。困ってた」

「あ、そっか。おじさんもいるんだっけ」

 去年とは違い、今出かけているのは両家の母親だけである。加えて今夜はマイの兄とその彼女もやって来るのだ。スーパーの天井を仰いで考えを巡らせたマイは、カレーを諦めて鉄板焼きにでもしようと思った。

 ユウが持つと言うので買い物籠を渡し、マイは肉を籠に放り込んでから歩き出した。肉の他に野菜や魚介類を買い、夕方で混雑しているレジに並ぶ。マイは斜め後ろに立っているユウを振り返って声をかけた。

「おじさん、何時くらいに帰って来るの?」

「たぶん、八時くらい」

 ユウに頷き返しながら、マイは今後の予定を頭の中で組み立てた。米を炊いて、野菜を切るなどの下ごしらえをして、ホットプレートの準備までしておけば小笠原家の食卓は事足りる。あとは翌日、片付けに赴けばいいだけだ。

 会計を済ませたマイとユウはスーパーに備え付けの台に移動して袋詰めを行った。小笠原家の食材は袋一つ分、倉科家の食材は袋二つ分である。それを見たユウが眉根を寄せながら首を傾げた。

「マイのおじさん、大食い?」

 ユウが的外れなことを言ったので、不意打ちをくらったマイは吹き出した。ひとしきり笑った後、マイはユウの疑問に答える。

「これからお兄ちゃんが帰って来るんだよね。しかも彼女づれで」

「ふうん。秋雄さん、今いくつだっけ?」

「えーっと、確か今年大学を卒業するはずだから……二十一かな?」

「まだ誕生日がきてないのか」

「そうそう。お兄ちゃん、秋生まれだから」

 七歳差の兄が大学進学と同時に家を出てから、すでに三年強も経っている。秋雄は盆暮れ正月にも帰って来た例がないので、マイの中ではいないことが当然として扱われていた。実妹でさえそのような感覚なので、ユウにとっては尚更遠い存在だろう。マイはそう思っていたのだが、ユウは不意に懐かしそうな表情をした。

「秋雄さんの名前、久しぶりに聞いたな」

 そう独白したかと思うと、ユウは袋を全て手にして歩き出した。マイも慌てて後を追う。

「一つくらい持つよ」

「重くないし、いいよ。それより、秋雄さんは何時くらいに帰って来るんだ?」

「うーん、そろそろ帰って来るんじゃないかな」

「じゃあ、少し急いで帰る?」

「急がなくてもいいよ。ケータイ持ってきてるし、お兄ちゃんもカギ持ってるだろうし」

「そうか」

 マイから視線を外したユウは前方を見て、いつもと変わらぬ速度で歩く。ユウの横顔が心なしか嬉しそうに思えたので、マイは首を傾げながら帰路を辿ったのだった。






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