Loose Knot

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受験生の夏


 夏の夜、倉科家のリビングでは八時を過ぎても笑い声が絶えなかった。倉科家の大黒柱が帰宅した直後から秋雄と美樹は酒を酌み交わしており、そこへ小笠原家の家主が参加したことでいっそうの盛り上がりを見せているのである。大人達は鉄板焼きを肴にのんびりと酒を飲んでいるが、未成年であるマイとユウは早々に食事を切り上げて縁側へと移動していた。

「はい」

 キッチンへ行って冷えた麦茶を注いできたマイは、手にしていた片方のグラスをユウに差し出した。外に向けて足を伸ばしているユウはマイに礼を言いながらグラスを受け取る。マイもユウの隣に腰を下ろし、背後から聞こえてくる上機嫌な笑い声に苦笑した。

「まさか結婚するって言い出すなんてね」

 秋雄が美樹を連れて来たのは、結婚を決めた相手だからであった。秋雄の就職先が決まったことを機に、彼らは結婚を決めたらしい。そのことを知った倉科家の大黒柱が非常に喜び、孫の顔が見たいなどと気の早いことを言って話題を盛り上げているのだった。

「秋雄さんが彼女連れて来てるって聞いた時から俺はそうじゃないかと思ってたけど」

 ユウが同調してくれなかったのでマイは彼の方へ顔を傾けた。

「そういうもん?」

「一人暮らししてるんだから、その気がなかったら実家に連れて来る必要ないじゃん」

「……そっか」

 一人暮らしを始めてから、秋雄は盆暮れ正月であろうと帰って来た例がない。そのことを考えればまったくもってユウの言う通りであり、マイは感心すると同時に一抹の悔しさを覚えた。

(ユウの方がお兄ちゃんのこと分かってるみたい)

 そしてユウのことも、マイより秋雄の方が分かっているのだろう。それが男の友情なのかと、マイは小さく息を吐く。マイの変化を見咎めたユウが少しだけ顔を傾けた。

「何?」

「なんか、とられちゃった気分」

「秋雄さんを美樹さんに?」

「ユウをお兄ちゃんに」

 マイが他意なく発した一言に、ユウは絶句した。瞠目して動きを止めていたユウはやがて眉根を寄せ、それから小さく首を振り、呆れたような表情で空を仰ぐ。不可解なユウの動作を目にしたマイは訝しげに眉根を寄せた。

「何?」

「別に」

「ふうん?」

 マイが麦茶を干してグラスを置くと沈黙が訪れた。縁側には夏の夜風が吹き込んでくるが、気温が下がっていないため生ぬるい。唯一、風鈴の硬質な音色だけが涼しさを演出していた。

「そういえば、さ」

 沈黙を破り、マイは外に向けていた視線をユウに転じた。ユウから反応はないが、視線はマイの方を向いているので話は聞いているようである。マイは座ったままユウに向き直ってから言葉を次いだ。

「ユウ、サッカーやってたんだね。だから久本がサッカー部に誘ったりしたの?」

 マイの友人の彼氏である久本はサッカー部に所属している。その彼が誘うということはユウが少なからずサッカーに通じているということだが、マイはユウがサッカーをしている姿など見たことがなかった。だがこれで、ようやくマイにも得心がいったのである。しかし当の本人は煩げな様子で息をついた。

「秋雄さんに少し習っただけで、やってたなんてもんじゃない。久本が俺を誘ったのは体育の授業でサッカーがあって、その時にたまたまゴール決められたから」

 ユウ自身は、ゴールを決められたのは運が良かっただけなのだと言う。だが久本は勝負運が強いに越したことはないと言い、ユウをサッカー部に誘っていたらしい。現場を見ていないマイには何とも言い難かったが、久本のサッカーにかける情熱もユウが面倒くさがりだということも知っているので苦笑いを浮かべた。

「なるほどね」

「マイ、勉強してる?」

 ユウが話題を変えたのでマイは一瞬返事に詰まった。せっかく忘れていられた圧迫感が蘇ってしまい、マイは重苦しいため息をつく。

「してるよー。ついに塾に入れられたから」

「塾なんか行ってんの?」

「知らないうちに申し込まれてた。それで自分は旅行に行くとか信じらんない」

「……まあ、普通は受験生の子供を置いて旅行には行かないよな」

「私も旅行したい。遊びたい」

「中卒で浪人はキツイから今は頑張れ」

「そこまで成績悪くないよ。そういうユウこそ勉強してんの?」

「してるよ」

 塾に行くようになってからマイが感じる重圧感は日毎に増していっているのだが、ユウには余計な気負いもないようだ。平素とまったく変わらぬユウを羨ましく思いながら、マイは隣家に遮られてよく見えない夜空を仰ぐ。

(夏が終わったら、受験一色かなぁ……)

 呑気に過ごしていた去年の今頃を懐かしく思い出し、マイは重いため息をついた。






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