夜伽草子

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葉月、曼珠沙華


 時は平安、後一条天皇の御代。都のある山城から北東に位置する飛騨の深山に人目を忍ぶ邸宅があった。西対(にしのつい)を省いた寝殿造りに住まうのは『若』と呼ばれる一人の青年。これは人間の男と美しき化生どもの織り成す夜伽の物語である。








 葉月の夜、山の奥深くにひっそりと佇む邸宅で青年はとこについていた。静まり返った寝殿には虫の声すらも届かず、彼は独りきりで瞼を下ろしている。

 肌衣一枚で横たわっている青年は寝殿の主であり、彼は『若』と呼ばれる存在である。眉目秀麗な若の面は先行きが長くない病人のように生白く、二十歳前後と思われる彼の体は年齢のわりに痩せ細っていた。これが貴族の屋敷であれば祈祷によって病を払おうとするところであるが、生憎この屋敷には若のために祈祷を行う者など存在しない。だが病床に伏している若の元に、弱った人間の顔を好む者が訪れた。

『若』

 己を呼ぶ涼やかな声を聞いた若は薄っすらと目を開けた。彼の漆黒の瞳が捉えた姿は天井を透かしながら目前を浮遊している赤い女。

「そなたは……」

 形の良い若の口唇がわずかに開き、か細い声を発した。真紅の長髪を空中に漂わせた女は優美な笑みを浮かべて応える。

『曼珠沙華にございます。秋になりましたので急ぎ、若の元へ参りました』

 燃える炎のような真紅の髪に色彩のない瞳といった容貌の女は彼岸花の化生である。彼岸花には異名が多いが当人は曼珠沙華を名乗り、若は彼女のことを「いちし」と呼んでいた。「いちし」は万葉集に収められている歌に詠まれている花であり、彼岸花ではないかと言われている。若は目前を漂う曼珠沙華の姿をしばし見つめていたがやがて、応じなければならないことに気がついて口唇を開いた。

「……そうか。もう秋なのだな」

 寝殿を吹き抜ける風が冷たいものであることに思い至った若は囁くように呟きを零し、再び瞼を下ろした。今の若には起き上がることはおろか、目を開けていられるだけの体力も残っていないのである。

「すまない。今宵は起き上がれそうもない」

 弱々しい謝罪を聞いたいちしは深い哀れみのまなざしを若へ向けた。真紅の髪を舞わせながら空中を泳いだいちしは横たわる若の傍へそっと降り立つ。

『若はいつでもそう・・ですのね』

 耳元で皮肉をたっぷり含んだいちしの声がしたので若は苦笑を返そうとしたのだが、彼の白い頬はぴくりとも動かなかった。例年、文月に現れる化生が強欲であるため若は葉月のうちは床についていることが多い。従って、いちしは若の寝姿ばかりを目にしているのである。これではいちしが不満を抱くのも当然であるが、若には拒むことなど出来はしないのであった。

 広大な屋敷に独りきりで住んでいる若は化生に捧げられた贄である。夜毎化生に生き血を与え、臓物を食まれ、生気を奪われることが務めである若は、己が拒絶を口にしてはならないことをよく承知していた。せいぜい代替を申し出ることが若に許された細やかな自衛の手段なのである。だがいちしには代替として与えられそうなものも見当たらず、わずかに残された気力を振り絞って瞼を上げた若は彼女の瞳を見つめながら精一杯の謝罪を口にした。

「すまない、いちし」

 彼岸花の化生は確かに怒っていたが、若の真っ直ぐな瞳に射抜かれると渋々といった具合に無表情を崩す。

『若は特別ですもの。許してさしあげますわ』

「特別?」

 再び瞼を下ろしながら問いを口にした若の上方へと移動し、いちしは愛おしむ微笑みを浮かべながら彼の面を覗き込んだ。

『特別、美しいですわ』

 囁くいちしの口唇が、若の口唇を掠め取る。だが肉を持たないいちしの口付けは、若には冷気が触ったとしか感じられなかった。若の美しい寝姿に気を良くしたいちしは上方から彼を観賞したまま夜伽話を始める。

『若、大陸のお話などいかがですか?』

 いちしの誘いに興味を惹かれた若は、しかし目を開けることも出来ぬまま血の気の失せた口唇を開く。

「そなたも、大陸から参ったのか」

『はい。私はこの国にある全ての曼珠沙華の母にございます』

 日本に存在する彼岸花は遺伝的に全て同一であり、中国から伝わった一株の球根から株分けの形で広まったと考えられている。そのようなことなど知らない若は平素であれば詳しい説明を求めるところなのだが、今宵は思いが及ばなかった。若は閉口したものの話に耳は傾けており、その気配を察したいちしは澱みなく言葉を重ねる。

『若は李白をご存知ですわね。今宵は李白のオトモダチ・・・・・である杜甫のお話にいたしましょう』

 李白とは盛唐期の詩人である。杜甫も同時期の詩人であり、彼は李白より十一歳年下であった。そういった簡単な説明を加えてから、いちしは杜甫の詩を読んだ。




 死別は(すで)に声を呑むも

 生別は常に惻惻(そくそく)たり

 江南は瘴癘(しょうれい)の地

 逐客(ちくかく) 消息無し

 故人 我が夢に入り

 我が長く相(おも)ふを明かにす

 恐らくは平生(へいぜい)(こん)(あら)

 路遠くして測る()からず

 魂来るとき楓林(ふうりん)青く

 魂返るとき関塞(かんさい)黒し

 君今 羅網(らもう)に在り

 何を以て羽翼(うよく)有るや

 落月(らくげつ) 屋梁(おくりょう)に満つ

 ()ほ疑ふ顔色を照らすかと

 水深くして波浪(ひろ)

 蛟龍(こうりょう)をして()しむる無かれ




 いちしが若に聞かせたのは「李白を夢む」という杜甫の詩の二首のうちの一である。杜甫は李白を敬愛しており、この詩の他にも多く李白を思い、その身を案じる詩を残している。そうした小話を交えながら、いちしは続けて詩の解釈を若に伝えた。

『死別というものは悲しいものだが生別もそれに劣らず、常に心を痛めるものだ。江南は毒気の立ち込める土地だと聞くが、そこに追放されている李白の消息が分からない。だがその旧友が私の夢に現れた。これは私がいつも李白を思っている証だろう。私の元を訪れた李白の魂は平生のものではないようだったが彼がいる場所はあまりに遠く、確かめようもない。李白の魂は楓林の青い江南からわざわざここまでやって来た。そして彼の魂が帰ったあとは、私のいる秦州はただ黒々と暗いばかりだ。君は今囚われの身となっているのに、どうして翼を得てここまで飛んで来ることが出来たのか。君の魂が去ったあと落ちかかっていた月の光は梁を満たし、今も君の面影がそこに照らし出されているような気がする。君のいる南方の地は水が深く、波浪も果てしない所だ。どうか君が、害せられることがないように。という内容の詩ですわ』

 この時、李白は心ならずも朝廷から謀反の罪を得て流罪となっていた。杜甫はそうした李白の身を案じていたのである。若はそういった事情は知らなかったが、李白を思う杜甫の心に確かな友情を感じた。

「この詩が詠まれた後、彼らは相見えることが出来たのか?」

『いいえ。若い頃に別れたきり、再会することはなかったようですわ』

「……そうか」

 杜甫の心痛に思いを馳せた若はやるせない気持ちに襲われた。奔放に生きる化生とは違い、様々なものに縛られる人間は哀しい生き物である。だが不自由であるからこそ痛みが分かり、胸を焦がし、必死に生きようとするのだ。人間にしか持ち得ないそうした想いは儚くも美しいと、若は密かに胸中で呟きを零した。

『若、些細な趣向を思いつきました。受肉の許可をいただけませんか?』

 唐突ないちしの申し出を、若は考えることもなく承諾した。地に足をつくことで肉体を得た彼岸花の化生は血の気ない若の口唇に指を寄せる。

「若、口唇を開いてくださいませ」

 いちしに言われるがまま若はわずかに口唇を開いた。その隙間から入り込んだいちしの細い指が、若の舌にそっと触れる。刹那、目を閉ざしているはずの若の視界が急激に開けた。若が目にしたものは幅の広い川と、岩石が転がっている河原であった。川の辺には真っ赤な彼岸花が群生しており、風もないのに揺れている。誰に教わったわけでもなかったが、若はこの風景が何であるのかを本能的に理解していた。

 病の肉体を離れて三途の川を見に行く、それがいちしの言う「些細な趣向」だったらしい。だが殺風景な周囲を見回してみても、その趣向を思いついた者の姿は見えない。若は川の辺で燃えるように咲き誇っている彼岸花を一瞥した後、その手前にある水面へと視点を定めた。

(あの川の向こう側で、彼らは出逢えたのだろうか)

 若が佇んでいるのは此岸であり、彼には彼岸のことは分からない。だがきっと、彼岸には安息が待っているはずなのだ。ならば心を痛めるようなこともないはずであり、杜甫と李白もあちら側で再会を果たしたのだろう。光る水面を見つめながら、若はぼんやりとそんなことを思った。

(私にも、友と呼べる人がいてくれたなら……)

 杜甫と李白の温かくも悲しい友愛に心を動かされた後だけに、どうしてもそう考えずにはいられなかった。美しくも侘しい風景がそれまで気がつきもしなかった孤独を実感させ、若の頬を一筋の涙が伝う。河原を吹き抜ける無情な風は川の辺で美しく花開いている彼岸花をゆらゆらと揺らし、不均衡に積みあがっている小石を崩れさせ、やがては若の涙も乾かしていった。








 夜の闇が深かった時代、平安。これは化生とともに生きる一人の青年の夜伽の物語である。






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