夜伽草子

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文月、槐


 時は平安、後一条天皇の御代。都のある山城から北東に位置する飛騨の深山に人目を忍ぶ邸宅があった。西対(にしのつい)を省いた寝殿造りに住まうのは『若』と呼ばれる一人の青年。これは人間の男と美しき化生どもの織り成す夜伽の物語である。








 文月の夜、山の奥深くにひっそりと存在する邸宅で青年は西の渡殿(わたどの)に佇み、屋敷の南に造られた庭を眺めていた。直衣(のうし)立烏帽子(たてえぼし)といった出で立ちの青年は寝殿の主であり、彼は『若』と呼ばれる存在である。若の漆黒の瞳が見据えているのは池を背に白い花を咲かせている槐の木であった。槐は惜しみなく降り注ぐ月光を満身に浴び、妖艶な輝きを放っている。やがて蝶形の花が一つ落ち、地に着く前にひらひらと空中を漂い始めた。

「槐」

 若の形の良い唇がその名を紡ぐと、樹から落ちた槐の花が屋敷の方へやって来た。目前で輝きを放つ小さな花を誘導するように若は渡殿を東へと進む。寝殿へ戻ってから、若は改めて槐の花と向き合った。

 この屋敷に住んでいる人間は若一人だけであり、ここには人間はおろか獣や鳥さえも訪ねては来ない。そのような環境に身を置いている若の元を訪れるのは化生だけであり、光りながら空中を漂っている槐の花も化生である。通常であれば化生は若に伺いを立ててから肉体を得るものだが、槐の化生は少々勝手が違っていた。化生は大概が高慢であるが、その中でも槐の化生はひときわ気位が高いのだ。そのため肉体を得るまでは人型にもならず、こうして花の姿のままでいるのである。槐が白い花を咲かせると迎えに行き、寝殿へ誘ってから肉体を得てくれるよう頼むまでが、若が文月の夜に行う一連の動作となっていた。

「槐、受肉をしてはくれまいか?」

 受肉とは、化生が触れることの叶わぬものから触れることが出来るものとなるよう肉体を得ることである。若のこの言葉を聞いて初めて、空中を漂っていた槐の花は地へと落ちた。板を張った床に触れた小さな花は光を保ちながら人型へと変貌を遂げる。肉体を得た槐の化生は床を這う真白な髪と新緑色の瞳を有しており、その美しい面にはふてぶてしさを思わせる笑みを湛えていた。

 若の元を訪れる他の化生は身なりに気を遣っていることが多いが、槐の化生は肉を得た体に薄布を一枚巻きつけているのみである。着飾ることも女人であることを強調する卑猥さも意味合いは同じなのだが、半裸の槐を目にした若はその露骨さに嘆息したくなってしまった。しかし若は、胸裏を面に表すような愚かな真似はしない。若が無反応でいると槐の化生は女房のようにころころと笑い声を立てた。

「若君、妾と(とき)を共にしたいと申されますか」

 槐もまた他の化生と同じく血肉を欲するが、彼女にとって大切なことは下等な人間の方から誘われたという建前なのである。傍から見れば槐の発言は傲慢以外の何物でもなかったが、若は化生の誇りというものを理解しているので特に不快を抱いたりはしなかった。なにより彼は、化生と共に在ることに慣れているのである。

「槐、そなたに夜伽話を聞かせてもらいたい」

 申し出を受けた槐は駄々をこねる幼子をあやす時のように仕方のなさそうな表情を若へ向けた。

「若君は昨今、大陸に興味をお持ちのようですわね」

「そなたも大陸からやって来たのか?」

 水無月に朝顔の化生から大陸の話を聞いて後、関心の高まっていた若は槐の思わせぶりな発言に食いついてしまった。若が瞳を輝かせたことに気を良くした槐はすっと目を細め、高慢な笑みを浮かべて頷く。

「妾は尊貴。人間どもは妾を崇め、平伏するのが常です」

 槐の物言いは若に敬うことを求めていたが、如何せん、無知な彼には作法が分からなかった。弱りきった表情を浮かべる若を横目に一瞥した槐は大袈裟に肩を竦めて見せ、それから気分を変えるように畳を指し示す。

「若君、夜伽話は横になって聞くものですよ」

 真白に彩られた槐の長い爪が導く(とこ)は生々しく、夜伽話の後を思った若は躊躇いを見せた。だが槐の機嫌を損ねれば大陸の話を聞けなくなってしまうので、若は憂鬱を振り払って立烏帽子を外す。次に衣を脱ぎ、肌衣のみとなった若はゆっくりと床に体を横たえた。

「これで良いか、槐?」

「ええ。良い姿ですよ、若君」

 槐は口唇の端を引いて微笑み、横たわる若の傍に座して詩を読んだ。




 花間(かかん) 一壺(いっこ)の酒

 独酌(どくしゃく) 相親しむもの無し

 杯を挙げて明月を迎へ

 影に対して三人を成す

 月既に飲を解せず

 影()だ我が身に(したが)ふのみ

 暫く月と影とを伴ひ

 行楽(すべから)く春に及ぶべし

 我歌へば月徘徊し

 我舞へば影零乱(りょうらん)

 醒むる時は(とも)に交歓し

 酔うて後は各々分散す

 永く無情の遊を結び

 相期す 雲漢(うんかん)の遥かなるに




「李白の月下独酌(げっかどくしゃく)其の一です。若君のお気に召しまして?」

 月下独酌は漢詩であり、若が今まで耳にしてきた和歌とは形式からして違う。まして若は大陸の歴史というものをまったくと言っていいほど知らず、李白という名も初めて聞くものであった。そのような状態で感想を求められた若は困りながら言葉を紡ぐ。

「美しい響きであるな。だが槐、私は無知だ。少し補足してもらえるとありがたい」

「若君は人間ですから仕方がないですね」

 人間というものを無知であると解釈した槐は哀れみの視線を若へ落としてから補足を口にした。まず漢詩とは一句が四言か五言、または七言からなるのが普通であり、その他にも様々な規則が存在する。また古詩、楽府(がふ)、絶句、律、排律などの種類があり、月下独酌其の一は五言古詩である。次に李白とは盛唐期の詩人であり、一時期玄宗皇帝に仕えた他は放浪の人生を送った人物である。酒、月、山を好んで詠み、彼は道教的幻想に富む作品を多く残した。

 槐の補足は若にとって真新しい知識であり、彼はますます大陸の話にのめり込んでいった。李白という人物を少し知った若は月下独酌にさらなる関心を抱き、槐に解説をしてくれるよう願い出る。せがまれた槐の化生は大袈裟なため息を吐いてみせたが、しかし彼女は若のために解釈を加えた。

「花の間にある酒壺ひとつの酒。飲み友達もいないので杯を高く挙げ、月を招き寄せた。自分の影とも向き合い、これで三人連れになった。だが月は酒が飲めないうえ、影はただ私の動きに従うのみである。でも仕方がない、暫くは月と影と共に短い春を楽しもう。私が歌えば月は降り注ぎ、私が舞えば影は乱れ動く。まだ正気のうちはこうして共に楽しんでいるが、酔いつぶれた後では月は沈み影は消え、それぞれに散り散りとなってしまう。こうした世間のような無情の付き合いを、私は永久に続けたい。そして月よ、いずれは君と遥かな天の川で会うことを約束しよう。と、いう意味の詩です」

 説明を終え、歌うように言葉を紡いでいた槐が口唇を結ぶ。話の途中で体を起こしてしまった若は月下独酌の余韻を楽しみながら月の光が注ぐ南庭へと目を向けた。寂しい一人酒も李白にかかれば幻想的な光景へと姿を変える。情緒豊かに独り身を詠みきった李白の感受性に若は激しく心を揺り動かされたが、槐は皮肉な笑みを浮かべた。

「同類のいない男が己を慰めるために作った詩です。お気に召しまして?」

 槐の一言は少なからず若の興奮を萎えさせた。だが心の移ろいを悟らせないよう平静を務め、若は槐を顧みる。

「槐、天の川とはどういったものなのだ?」

「星が集まって川のように見えるものです。空をご覧あそばせ」

「そうか。では、庭へ下りてみよう」

 天の川に興味を引かれた若は立ち上がろうとしたのだが、槐の白い腕がそれを制した。新緑色をしていたはずの槐の瞳までもがすでに白色に染まっていることに気がつき、若はその場で踏み留まる。若の漆黒の瞳を射抜いた槐は卑猥に口唇を歪ませ、欲望を露わにした。

「天の川をご覧になる前に、若君にはすべきことがあるのでは?」

「……そうであったな」

 人間である若がこの屋敷に一人で住んでいるのは、彼が贄だからである。若は己が化生たちの慰み物であることを承知しているので、槐の要望を受け入れて再び床に横たわった。

 肌衣のみで仰向けに転がる若の上へ、槐の化生はすぐ馬乗りになった。若の体と重なった槐の身体の部位は次第に融けてゆき、若から瑞々しい精気を吸い上げていく。この行為は血肉を与えることとは違って気力を消耗するので、若の漆黒の瞳は虚ろに揺らいでいった。

「若君、その表情は魅力的です。このまま殺してしまいたいほどに」

 首筋を滑る槐の口唇から紡がれたのは凶暴でありながら艶美でもある囁きだった。甘美でいて荒々しい槐の化生に翻弄された若は浅い呼吸をくり返し、口づけを浴びるたびに美しい面を少しずつ歪めていく。女人を象る化生はこうして男の心を弄びながら精気を秘奥へと吸い上げることが常であった。

 その夜、若の精気を吸いすぎた槐の木は肥えすぎたために花を散らした。木の下には白い花が幾つも重なり、まるで雪が降った後のようであったという。








 夜の闇が深かった時代、平安。これは化生とともに生きる一人の青年の夜伽の物語である。






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