夜伽草子

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皐月、人間来る


 時は平安、後一条天皇の御代。源氏の台頭が著しい平安時代の末期である。この頃になると平安初期に設置された検非違使(けびいし)は衰退し、替わって地方武士が任命される追捕使(ついぶし)押領使(おうりょうし)が治安維持を担当するようになった。盗賊や反乱者を追捕するために派遣されるのが追捕使であり、内乱などに際して兵士を統率するのが押領使である。

 皐月のある夜、追捕使に追われた盗賊の集団が飛騨の深山に足を踏み入れた。獰猛な獣でさえも縮こまる長雨の夜、彼らは止まぬ雨に体温を奪われながらひたすらに道なき道を上り続けている。この時代の刑罰は身体刑であり、追捕使に捕まってしまえば杖罪や笞罪は免れないため、彼らは必死で逃げていたのだ。

 逼迫した集団の前にやがて、山中には不釣合いな佇まいを見せる邸宅が姿を現した。周囲を立派な築地(ついじ)で囲まれているその邸宅は寝殿造りで、どうやら貴族の住まいのようである。ひっそりと雨に濡れている邸宅に人気はなく、追っ手と深山の過酷な環境に追いつめられた者達の目にはそこが絶好の隠れ家のように映った。そうして彼らはあまりにも重厚な静謐に包まれている邸宅の異様さに気付くことなく、救いを得た思いで眼下に見えた屋敷を目指したのだった。






 都のある山城からは北東に位置する飛騨の深山に人目を忍ぶ邸宅があった。西対(にしのつい)を省いた寝殿造りに住まうのは『若』と呼ばれる一人の青年である。

 長雨が降りしきる皐月の夜、若は釣灯籠(つりどうろう)の下に座りこみ、濡れそぼつ南庭を眺めていた。そろそろ紫陽花が美しく色づく季節だが、彼の植物は日陰を好むために寝殿からは見えない場所に植えられている。だが冷気とともに、雨を好む者が若の元へとやって来た。彼の漆黒の瞳が捉えたのは宙を舞う人型の化生である。その化生は長く伸びた藍色の髪を一つに束ねており、水干(すいかん)という庶民の出で立ちをしているために男女の判別が難しい。だが元来化生には性別など意味がなく、彼らはただただ美しい存在なのだ。

『若、お久しゅうございます』

 右腕を胸の前に置いて恭しく一礼して見せたのは、紫陽花の化生である。洒落た挨拶を見せられた若は目を細め、口唇の端を引いて薄く笑みを作った。

「初めて見る衣であるな」

 若の言葉に応えるために面を上げた紫陽花の化生は、雨夜の庭を背後に透かしながら優美な微笑みを浮かべる。

『この衣は水干と申すものでございます。先日人里へ下りましたところ白拍子(しらびょうし)なるものを見かけ、気に入りましたので模して参りました』

「白拍子?」

『白拍子とは今様(いまよう)などを歌い、水干・立烏帽子(たてえぼし)佩刀(はいとう)の男装で舞う歌舞にございます』

「今様とは?」

『多く、七・五調四句からなる新様式の歌謡にございます』

「そうか。都ではそのようなものが流行っているのか」

 一度たりとも赴いたことのない都へ思いを馳せ、若はやまぬ雨を降らす天を仰いだ。紫陽花の化生はそっと、宙を泳いで若の傍へ寄り添う。

『若は都に興味がお有りですか?』

「華やかなのであろう? 一度は行ってみたいものだ」

『ならば化生になられませ』

 紫陽花の化生が口にしたのは極論であり、若は苦笑いを浮かべた。しかしこの話題にそれ以上の反応を示す気のなかった彼はすぐに表情を消し、さりげなく話を変える。

「都もいいが雨の降りしきる庭も風情がある。それとも、そなたの姿を見に参るか」

『若、雨の夜は庭へ下りてはなりません』

 ふわりと宙を漂い、若の眼前に回り込んだ紫陽花の化生は、やや険しさを滲ませる真顔をしていた。彼女の語気も思いのほか厳しいものであり、訝しく思った若は形の良い眉の根を軽く寄せる。若の疑念を察した紫陽花はすぐに表情を一変させ、口元に侮蔑の笑みを浮かべながら真意を明かした。

土童(つちわら)に、とって喰われてしまいますよ』

「土童……?」

『卑しい魑魅(すだま)の類でございます』

 若には化生と魑魅の違いがよく分からなかったが、明らかに魑魅を蔑視している紫陽花に詳細を尋ねることは憚られた。彼女たちの機嫌を損ねないよう努めている若は興味を抱いた内容にも早々に諦めをつけ、当たり障りのない科白を選んで口にする。

「時に紫陽花、そなたは受肉をしないのか?」

 受肉とは、触れることの叶わぬものから触れることの出来るものとなるよう肉体を得ることである。大抵の化生は通常、若の前に姿を現すと彼に願い出る形で受肉を成す。しかし紫陽花の化生は魂のまま空中を漂っているばかりで、伺いを立てようとする気配さえなかった。

『私が受肉をいたしましても若に触れることは出来ませぬ故、このままの姿でお相手をさせていただこうと思います』

 紫陽花の化生は穏やかな笑みでもって答えたが、その答えを不可解に思った若は小さく首を傾げた。化生によって程度に差異はあるものの、彼女たちは血肉を持った交わりを好む。常日頃から化生に接している若はそう認識していたが、思い返してみれば紫陽花の化生に触れられたことは一度としてなかった。言われて初めてそのことに気がついた若がさらなる疑念を募らせていると、紫陽花が涼しい表情でその理由を明かす。

『私には猛毒が溶けております。ヒトが体内に取り込みますと中毒を起こし、場合によっては死に至らしめてしまうこともありますので、若に触れることは叶わぬ夢にございます』

「……そうであったか」

 紫陽花の配慮を初めて知った若は申し訳ない思いに駆られて目を伏せた。自責に揺れている若を見て目を細めた紫陽花は肉を持たない腕を伸ばし、愛しむように優しく若の頬を包み込む。肉感はないものの紫陽花の魂には冷ややかな質感があり、面を上げた若は触れることの叶わぬ彼女の手にそっと口づけをした。

『愛しい若君。私は若とこうしていられるだけで幸せにございます』

「だが、血肉が欲しいのであろう?」

『他で済ませていますので、どうぞお気になさらずに』

「……紫陽花、受肉をしてくれ」

 触れることが叶わないと分かっていながら若がそのようなことを言い出したので、今度は紫陽花の化生が小さく首を傾げた。若は真意を告げないまま静かに立ち上がり、一度寝殿へと姿を消してから再び広廂(ひろげさし)へと戻って来る。若の手に握られている物に目を留めて、紫陽花の化生は美しい顔をわずかに歪ませた。

『若、何をなさるおつもりです?』

「触れなければ、良いのであろう?」

 鞘を払った小刀を、若は自らの左手に向けた。その仕種で彼の意を理解した紫陽花はすぐさま広廂へと下り立つ。足袋を履いていない紫陽花の素足が床に着くことにより、その姿は足元から背後の風景を通さなくなっていった。受肉を終えた紫陽花は長い藍色の髪を後方へと退け、若の前で跪く。深い藍色の瞳が真っ直ぐに見つめてくるので、若は化生の瞳に映った己を一瞥してから人差し指に刃を押し付けた。

 化生に蹂躙される時、若は痛みを感じない。だが自ら刻んだ傷は痛覚を刺激し、肉を断つ瞬間に久方ぶりの痛みを感じた若は小さく呻き声を零した。端整な顔を痛みに歪めながら、若はじくじくと疼く指先の傷を紫陽花の口元へと近づける。指先から滴った血液が少しだけ開いた紫陽花の口唇から喉を通った刹那、彼女は歓喜に打ち震えた。

「なんと甘美な……これほどまでに違うものなのでございますね」

 感涙が紫陽花の白い頬を伝い、彼女は酔いしれているように囁きを零した。小刀を投げ捨てた若は左手の傷を右手で覆い、痛みに気をとられながらも紫陽花へと視線を傾ける。

「ああ……若、私とまらなくなりそうです。今すぐ貴方を引き裂いて(はらわた)を貪りたい」

 うっとりとした表情で見上げてくる紫陽花が熱烈な胸の内を曝け出したので、若はやんわりと苦笑いを浮かべた。

「引き裂くのはよしてくれ。私はまだ人間でいたいのだ」

「これは……私としたことが失礼をいたしました」

 口先では詫びながらも藍から朱へと変化した紫陽花の瞳は剣呑な輝きを隠そうとしていなかった。一度火のついてしまった化生を宥める術を知らない若は紫陽花の瞳にぞっとして、傷口を背後にまわしながら一歩ずつ後ずさる。そのたびに紫陽花の化生は一歩ずつ前進していたのだが、しかしふと、彼女は動きを止めた。紫陽花の視線が不意に南庭へと注がれたので、若もつられて雨に濡れた庭園へと目を移す。

「ニンゲン……」

 形の良い薄い口唇の端をつり上げ、紫陽花の化生が歪に微笑んだ。彼女の声音は背筋が凍りつきそうなほど悍ましい響きを有していたが、それよりも目前の光景に目を奪われている若はあまりの驚きに驚愕以外の感情を喪失させている。虫や鳥さえも居つかない邸宅に何故彼らがいるのかは不明だが、雨に濡れている南庭に確かに人間の姿があるのだ。

「そなたたち……」

 高欄(こうらん)へ指をかけて身を乗り出した若が発した呼び声は、人間たちの叫び声に遮られた。みすぼらしい姿の人間たちは一様に紫陽花の化生を指差しており、なかには腰を抜かして倒れこんだ者もいる。しかしすぐ、彼らの恐怖の対象は紫陽花から足元へと移った。雨に濡れた土が次々と隆起して人型を成し、童のような土塊が人間たちの足に群がったのだ。その光景はこの世のものとは思えないものであり、言葉を紡いでいる途中で動きを止めた若は可能な限り目を見開いた。

「若、あれが土童にございます」

 説明を加えてくれた紫陽花の口調が至って平静なものだったので、若はぎこちない動作で隣にいるはずの彼女に顔を傾けた。しかし紫陽花の化生は若を見ておらず、熱を帯びた彼女の視線は土童によって雨の庭に引き倒されている人間たちに据えられている。口元に薄笑みを浮かべたまま南庭を眺めていた紫陽花は、やがて我慢が出来なくなった様子で若を振り向いた。

「若、私も行って参ります」

 そう告げた時の紫陽花の表情を、若は心の底から忘れたいと思った。顔を背けた若には構いもせず、紫陽花の化生は雨の中へと身を躍らせる。その場を動くことも出来ずに阿鼻叫喚の光景を目の当たりにしながら、若はぼんやりと弥生の夜を思い返していた。

(……これが、物珍しいことなのか)

 弥生の夜、若は藤の化生と囲碁の勝負をした。この対局は稀有な三コウにより無勝負となったのだが、その時に藤が物珍しいことが起こるかもしれないと零していたのである。

 生きながら肉を裂かれ、腸を引きずり出されている人間たちは、もはやヒトとは思えない叫び声を放っている。いつかは己も、この人間たちと同じ末路を辿る。誰かにそう言われているような気がして、若は鼻と口を手で覆い隠しながら寝殿の内部へと引き返した。だが御簾(みす)を下ろしても何も遮ることは出来ず、その夜は臓物の臭気がいつまでも漂い、喚声と悲鳴は人間たちが喰らい尽されるまで南庭に響き渡っていた。






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