夜伽草子

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卯月、あやめ


 時は平安、後一条天皇の御代。都のある山城から北東に位置する飛騨の深山に人目を忍ぶ邸宅があった。西対(にしのつい)を省いた寝殿造りに住まうのは『若』と呼ばれる一人の青年。これは人間の男と美しき化生どもの織り成す夜伽の物語である。








 山の奥深くにひっそりと佇む邸宅で、寝殿の主である青年は広廂(ひろげさし)に佇んで南庭にある池を眺めていた。直衣(のうし)という出で立ちで月明かりに照らされている彼は『若』と呼ばれる存在である。彼の視線の先では池の辺で杜若(かきつばた)が咲き誇っており、夜の闇に鮮やかな青紫色を溶け込ませていた。

『若』

 不意に声が届けられたので、若は池に据えていた視線を上方へと傾けた。彼の漆黒の瞳が捉えたのは背後の風景を透かしながら空中を漂っている女の姿。明らかに人間(ひと)ならざる存在である彼女は青みがかった濃い紫色の髪と花粉のように黄色い瞳を有していた。花の色彩を忠実に表している彼女はあやめの化生であり、名をそのまま『あやめ』という。

 先程まで若が眺めていた杜若とあやめは、花の形がよく似ている。だが適地が異なるため、あやめは寝殿からは見えない場所で花を咲かせていた。池の辺に咲く杜若が水を好むのに対し、あやめは乾燥した土を好むのだ。

「そなたも咲いたか」

 あやめが花開いているはずの西へと視線を転じ、若は独白のように呟きを零した。あやめの化生が姿を現したのならば、じき長雨が訪れる。しかしそれはまだ少し先のことであり、怜悧に微笑んでいるあやめの化生を一瞥した若は再び水辺の杜若に視線を戻した。

「杜若はどうしたのだ」

 杜若の化生は貪欲で、常ならば花が咲けばすぐねだり(・・・)にやって来る。それが濃青色の花を咲き誇らせていながら姿を現さないことに、若は訝しさを覚えていたのだった。

『存じませぬ。わたくしにお尋ねにならないでくださいまし』

 そっぽを向いたあやめはそれ以上の問答を好まず、早々に寝殿へと上がって行った。その様子が明らかに素知らぬ顔をしている風だったので、若は違和感を抱きながら彼女の後を追う。

『若、受肉してもよろしいですか?』

 受肉とは、触れることの叶わぬものから触れることが出来るものとなるよう肉体を得ることである。伺いを立てるあやめに若は無言で頷いて見せた。

 あやめの化生が畳に足を着くと、それまで宙を漂っていた彼女の髪が重力に従って下方へと流れた。色彩はそのままに、彼女の髪や体が少しずつ背後の景色を通さないものへと変わっていく。そうして植物が大地に根を張るように足元から、あやめの体は実体化していった。踝まである長い髪をうるさげに退けながら膝を折ったあやめは、その黄色の瞳で若を見上げる。

「若、こちらへ」

 あやめに誘われた若は立烏帽子(たてえぼし)を外し、彼女の膝に頭を預けた。庭を臨む形で横たわる若の白い頬を、長く伸びたあやめ色の爪がゆっくりと伝ってゆく。

「若、お顔の色が悪いですわ。与えすぎなのではありませんこと?」

 あやめの言う通り若の肌は蒼白で、口唇の血色も悪い。だが化生どもに血肉を与えることを勤めとする彼にとって、体調不良は常日頃のことであった。暗に他の化生を非難しているあやめの発言には応えず、若は静かに目を閉ざす。彼が無言を貫いたのは贄であるはずの自身の発言が思いのほか影響力を有していることを承知しているためだった。

「若は伊勢物語なるものをご存知ですか?」

 若から反応が返ってこなかったことを気にする風でもなく、あやめはころりと話題を変えた。その執着心のなさはまるで、若との駆け引きを愉しんでいるかのようである。次第に心臓へと近付きつつあるあやめの爪に注意を払いながら、若は形の良い口唇を少しだけ開いた。

「歌物語だと聞く。内容は知らぬが」

「伊勢物語とは在原業平(ありわらのなりひら)と思われる男を描いた短編集でございます。和歌と、歌が詠まれるまでの心の動きや行動が綴られているものですわ」

「在原業平とはどのような人物なのだ?」

「皇統の血筋でありながら臣籍に下った色好みですわ。和歌の名手として僧正遍昭(そうじょうへんじょう)文屋康秀(ふんやのやすひで)喜撰法師(きせんほうし)、小野小町、大伴黒主(おおとものくろぬし)らと共に六歌仙と称されております」

 在原業平は平城(へいぜい)天皇の第一皇子の第五子である。業平の祖父にあたる平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位した後も権威と権力は保持しており、嵯峨天皇が病になると寵愛する藤原薬子らと共に再び権力を握ることを目的にもとの平城京への遷都をはかった。しかし企ては失敗に終わり、平城天皇は出家、第一皇子も左遷という末路を辿ることになる。このため業平らも在原の姓を賜って臣籍に下ることとなったのだ。薬子の変と呼ばれるこの出来事を、若は無論知るはずもない。だが彼は、皇統の血筋でありながら臣籍に下されたという業平に疎外された者の哀しみを感じた。

 化生どもは一部の例外を除き、人間を蔑む傾向にある。あやめは例に漏れない性質をしているため、彼女の冷ややかな言葉の裏には人間の心の豊かさが隠されているのだ。それを読み取るのが若の唯一の楽しみであり、彼は子守唄を待ち侘びている子供のように歌物語が語られるのを待った。

「今宵は第九段、東下りのお話にいたしましょう」

 束の間の静寂の後、あやめはそう言い置いてから昔語りを始めた。ほんのりと色づいたあやめの口唇から、まずは前置きが紡がれる。

 昔、男がいた。その男は我が身を役に立たないものと思いこみ、住める国を求めて東国へと旅立つことにした。旅には以前からの友人が同行したのだが、東国へと到る道を知っている者がいなかったために彼らは迷ってしまう。そして旅路の途中で辿り着いたのが、三河(みかわ)の国の八橋(やつはし)という場所だった。

「その沢には杜若が咲いており、同行の者に促されるまま男はこのような歌を詠んでおります」




 唐衣(からころも) きつつなれにし つましあれば

 はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ




 在原業平と思われる男が詠んだこの句は長い旅の果てに都へ残してきた妻を想うというものであり、その心情の豊かさに若は深く感じ入った。だが人間の情緒になど関心のないあやめは淡々と話を続ける。

「この歌には五音の題を各句の頭に読み込む、折り句と呼ばれる技法が用いられております。ここでは『かきつばた』ですわね」

 男の歌に共感したと思われる同行者達は乾飯(かれいい)の上に涙を落とし、そのため乾飯はふやけてしまった。そこで一区切りがつくらしく、あやめは口唇を結んだ。

 素晴らしい作品の余韻に浸る間もなく、若はあやめの真意を密かに考え続けていた。彼女が夜伽話に伊勢物語を選んだことが花を咲かせつつ姿を現さない杜若の化生と無関係とは思えなかったからだ。若の心臓の上に爪を据えたまま黙しているあやめに、自ら胸の内を語ろうとする気配はない。若はもう一度『かきつばた』の歌を思い返し、あやめの真意を推し量った。

「……私に慣れろと申しているのか、あやめ?」

「いいえ。若はすでに与えることには慣れていらっしゃるようにお見受けします。わたくしが申しておりますのは、慣れることによりお忘れになっている事柄があるのではとの愚見ですわ」

「私が忘れていること、か」

「翌年は、藤が花をつけないかもしれませんわね」

 ようやく引き出したあやめの真意に、若は嘆きの息を零しそうになった。しかしそれはしてはならないことなので、若はきつく口唇を引き結ぶ。

 弥生の夜、若は藤の化生とねんごろになった。その関係は拒む藤を若が強引に誘うことで成り立っており、藤の化生に対する扱いだけが明らかに他の化生とは違うものになっていたのだ。これはその制裁、ということなのだろう。

「罪の意識に苛まれるなど、杜若にも可愛らしい一面があるものですわね」

 あやめがついでのように零した一言で、若は杜若の化生が姿を現さない理由を察した。そして女房のようにころころと笑っているあやめが加担したであろうことを想像するのも、彼には容易いことだった。

 化生どもは受肉の際、若に伺いを立てる。しかし若は化生どもの主ではなく、ただの贄なのだ。好意によって成り立っている関係はひどく脆く、一時の過ちは取り返しのつかない結果を生む。北対(きたのつい)の裏に植えられている藤は、見るも無残な様相を呈していることだろう。その姿を思い浮かべた若は己が忘れていたことを痛烈に実感した。

(与えることが贄としての勤め。欲しては、ならないのだな)

 一度瞼を下ろし、再び上げてから、若はあやめの膝の上で仰向けに転がった。彼の漆黒の瞳の中では青紫色の化生が秀麗な微笑を浮かべている。

「ご安心くださいませ、若。化生とはいつしか蘇るものにございます」

 肩口から垂れ下がる青紫の髪を片手で退けながら、あやめがゆっくりと口唇を寄せてくる。目を閉ざして口づけを受け入れた若は胸中で、あやめが慰みのように口にした言葉に応えた。人間でいる間に藤を再見することはないだろう、と。

「ときに若、そろそろ頂いてもよろしいですか?」

 頃合を見計らって伺いを立てるあやめに若は無言で頷いて見せた。ゆるりと体を起こした若はそのまま夜具へと移動し、自ら仰向けに転がる。後を追って来たあやめは横たわる若の傍らで膝を折り、漆黒の瞳を覗き込みながら言葉を重ねた。

「心の臓を欲しいなどとは申しません。肝の臓を頂いても、よろしいですわね?」

「そなたの好きにするとよい」

「光栄ですわ、若」

 鈴が鳴るような華やかな笑い声に乗せ、あやめの爪が若の腹部へと迫る。青紫の異物が体内に侵入してきても若に痛みはなく、それは大きな臓物が取り上げられても同様であった。ただ痛みはなくとも、血と腸の臭気に抗いようのない吐気がこみ上げてくる。人間である若には耐え難い瞬間だったが、化生であるあやめにはそれが非常に甘美なもののようだった。彼女は臓物から滴り落ちる血を舐めとり、紅く染まった口唇を笑みの形に歪め、南庭へと視線を傾ける。

「杜若がいつまで耐えられるか見物ですわね、若」

 常には賢しさを崩さないあやめも、この時ばかりは化生の本質を剥き出しにする。同意を求められた若は悪趣味だと感じたがすぐさま、元来化生とはそのようなものだと思い直した。








 夜の闇が深かった時代、平安。これは化生とともに生きる一人の青年の夜伽の物語である。






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